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~私がうつ病になった経緯からこの団体を設立したきっかけまでその①~




はじめまして、当団体の代表の内田啓太と申します。

一番最初の日記なので、何を書いたらいいのか迷いましたが、ますは手始めに私がなぜうつ病になり、そしてなぜこのような団体を作りたいと思ったのか?そのいきさつを綴りたいと思います。


元々、私は大学時代から何となく複雑な人間関係が苦手で、最初に入ったテニスサークルも人付き合いが煩わしくなって一年ほどで辞めてしまいました。それからはごく少数の仲の良かった友人知人らと遊んでいる以外はアルバイトをしたり勉強をしたり、時々休みの日に一人旅にぶらりと出かけたりとそんな生活を送っていました。また、その頃からインドア派で、家にこもって作曲をしたり打ち込みをしたりなどもしていました。


そんな生活は気楽で自由ではありましたが、私は孤独というのも同じくらい嫌いだという矛盾を抱えた人間なので、サークルを辞めたことを後悔した時期もありました。そして、とてつもなく寂しい時もありました。


そんな中あっという間に就職の時期が迫り、焦った記憶があります。それまでは自由きままにときに孤独に暮らしていたのに、これからものすごく複雑で面倒な人間関係が絡んでくるであろう組織というものの中で果たして本当に自分のような不器用な人間がうまくやっていけるのか?


しかし、だからといって就職するという選択肢以外の道を必死に模索してきたわけでもなかったので、何となく周りに流されるまま就職活動をいやいやしていた、というのが本音でした。案の定そんな人間なので、人を見るプロである人事部の採用担当に内心がばれないはずもなく、そのやる気のなさをすぐに見抜かれたのか一年目は見事にどこも受からず就職留年決定。


どこの会社も入りたくないと思ってる人を取りたい会社なんてありませんからね。そしてその年も簿記の資格を取るなど勉強はしましたが、それ以外はダラダラと時間を過ごしてまたもやあっという間に就職活動の時期に・・・いよいよ追い詰められたので、ついにやむを得ず親のコネを発動することを決心!・・・そしてそのおかげで見事に一部上場企業でもある・・・あの天下の某三井系物流企業に内定が決まりました。



その時だけは一瞬安心してこれで何とか人生大丈夫だ!と思いました。そして、突然神様に感謝したくなって最終面接で内定をもらった帰り道になぜか川崎大師で一人寂しくお参りした記憶がいまだに残っている。



そしていよいよ内定式・・・周りはみんなスーツが似合ってそうな人たちばかり。しかも三井の会社だから金があるのか、都心の某ホテルで豪華な年末パーティーの最中に内定式。そこで一人一人大勢の先輩社員の前でスピーチをしなければいけなくなり心臓が破裂しそうなくらいドキドキに・・・ただでさえ人前で話すのは苦手なのに、おまけに自分はどこか浮世離れしたところがあるので内定式だというのにスーツの上を着てくるのを忘れる始末(笑)もちろんそんな人他にはいませんでした・・・(笑)&(;^_^A


内定式の招待状にセミフォーマルでもいいと書かれてあった気がしたので、それを鵜呑みにしたのか最初から大失態・・・人事部の中堅くらいの人にジャケットを借りてスピーチをするが、その上着のサイズが合ってなくダボダボでしかも上と下で色が若干違うというありさま(笑)しかもほかの人たちは、スピーチをあらかじめ考えていたようでしたが、自分は何も考えていなかったというまたもや大失態( ̄▽ ̄;)そのスピーチの前に社長が、その年がイノシシ年だったからか「猪突猛進がどうのこうの」と言っていたような気がしてとっさにその言葉を引用して「私もイノシシ年生まれなので猪突猛進で頑張りたい所存です」みたいな訳の分からない挨拶をしてとっさにピンチを回避しました(笑)&( ̄▽ ̄;)



その内定式のパーティーでひとつかふたつ上の先輩らしき人に「ジャケット着てこないなんて帰国っぷりを発揮してるな」とか皮肉めいた冗談を言われました( ;∀;)

帰国というのは帰国子女の意味ですが、帰国っぷりってなんだ?ってその時思いましたけど、いい意味で言えば個性的だけど、悪く言えば「浮いている!」と今思えば・・・そういうことだったんだろう(;^_^A



そして、そんなこんなであっという間に4月になりいよいよ入社してしまい、もう後戻りはできないと感じました。さらなるドキドキと面倒な人間関係の日々がこれから始まるのだろうと・・・どちらかというと面倒だと思う割合の方が圧倒的に多かったですが・・・


~その②へ続く~

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